日韓平和主義者たちのモデル―安重根と西坂豊―

申雲龍(安重根義士記念事業会責任研究員)

1,はじめに

 現在、世界は100年前の衝突を繰り返している。100年前の世界はそれこそ強者だけが生き残るジャングルの法則が唯一の人間生存の方法であると盛んに言われていた。そして誰かれかまわず自国民を抑圧しつつ隣国を侵奪した。特に日本帝国主義(以下日帝)は韓国を食い物にし中国を餌狩り場とすることに没頭した。
 こうした人間としての存在性を無視して、ひたすら侵略による力の増強だけを追求していた日帝の韓国侵奪に対して、これを全面的に拒否していた人物が安重根である。彼は日本社会を伊藤博文を中心にした侵略勢力と、侵略意思がない日本人とに分類し、接近したという事実に注目する必要がある。彼は物質文明に盲従する西洋勢力と日帝は結局自らの矛盾によって滅亡するものだと見て、兄弟のような平和的日本人を救援するための方法論として「東洋平和論」を提示した。彼の東洋平和論は命をかけても変えなければならない宗教的絶対性を基盤にしたものであった。結局、彼の「東洋平和論」も日本の侵略勢力を無力化させつつ東洋の"人民"が平和的に生きていける環境をつくるという意図から最後の手段として著述しようとしたものだ。
一方、日本でも安重根につぐ東洋平和主義者がいた。彼は当時日帝の侵略を合理化する理論にすぎなかったアジア連帯主義に盲従していた部類の人間とは全く異なる人物だった。その彼の名前は西坂豊である。
彼は日韓関係の悪化は東洋平和の破壊であるということを、生命の哲学的意味での喪失である自殺でもって証明しようとした。そのような彼について「大韓毎日申報」は安重根と同じく義士と称して尊敬した。
 今日の日韓関係もまたこのような様相のまま変わることがないなら武力衝突に直面しないとは言い切れない。これを止める哲学的根拠は安重根の東洋平和論から見いだし、その行動のよりどころを西坂豊から日韓の平和勢力は学ばねばならない。
 そして韓国で多くの安重根を育て日本で多くの西坂豊を輩出することが東洋の、さらには世界の平和を可能ならしめる道である。

2,安重根の東洋平和論

 1910年3月15日「安応七歴史」を完成した安重根は死を覚悟しつつ東洋平和論の執筆に拍車を掛け3月18日に序論を完成させた。安重根は3月25日に自分の死刑を執行するように要求したが1)「東洋平和論」の執筆が終わらず15日ほど死刑執行を延期してくれることを日帝に求めた。しかし日帝は安重根の要求を黙殺し3月26日に死刑を執行し2)
遂に「東洋平和論」を完成させることはできなかった。
安重根は東洋平和論を序文・前鑑・現状・伏線・問答として構成した。安重根が1910年3月26日殉国したために現状・伏線・問答は完成しなかった。
安重根は東洋平和論を著述する目的についてその序文で次のように主張した。

 今、西洋勢力が東洋へ進出してくる艱難を東洋人種が一致団結して防がなければならないのが第一の上策であることはたとえ幼い子どもであっても容易く理解できることだ。それでも何故日本はこうした純然とした形勢をかえりみず同じ人種である隣国を傷つけ友好を断って自ら蚌鷸の形勢をつくって漁夫をほめそやすのか、韓清両国人の願いが大きく切断たれてしまった。仮に政略を改めず逼迫が日増しにひどくなるなら、やむなくいっそ他の人種に亡ぼされても同じ人種から恥辱をうけないという議論が韓清両国人の肺腑から涌き上がり、上も下も一体になって自ら白人の手先になるのは火を見るよりも明らかな形勢だ。そのようになれば東洋の何億人もの黄色人種の数多くの志あって不義に慷慨する男児が袖手傍観し座して東洋全体が焼死惨状になるのを待つことであって、またそれが正しいことなのだろうか。そのため東洋平和のための義戦をハルピンで開戦し、談判する席を旅順に設け、続けて東洋平和問題に関する意見を提出するところなので諸公は注意深く調べるべきだ。3)
      
 要するに、安重根は西勢東征という時代の中で西洋勢力の侵略を防ぐ方法を考究するにあたり「東洋平和論」を叙述する目的があったと明かしている。また彼は東洋平和論を実践するために伊藤を処断した義戦をハルピンで行って東洋平和の当為性を知らしめるための場として旅順を選択したと主張した。4) 結局、安重根は東洋平和論叙述の目的を日帝に対外政策を修正するように置いていたのである。5)
「前鑑」で安重根は日清戦争で清国の敗北理由を'中華大国'という驕慢と権臣戚族の壇弄のためだと判断した反面、日本の勝利原因をひとかたまりの愛国党をなしたことが可能にしたと分析した。同時に人種論的立場で三国干渉によって遼東半島を占有したロシアの侵略政策に対し注目しなければならないと主張した。そうしながらも東洋平和が維持できない原因を
 
しかしその理由を問いただしてみるとこれはまったく日本の過失である。これが所謂「穴があると風が生じる」と言うように自分が征伐した後であるのに他人が征伐したとは、仮に日本が先に清国を侵犯しなかったならロシアがどうしてあえてこのような行動をしただろうか?「自分の斧で足を切る(背かれる)」ようだと言えよう。6)

 と言って日帝の東洋政策の過失を指摘した。
 日露戦争で日本勝利の原因は安重根は東洋全体の百年風を避けるために即ち東洋平和のために日本を韓清両国が助けたためだと言及しながらも'韓清両国有志の多くの所望'を切断したと日帝を批難した。また日露講和条約に韓国が日露両国と何の関係がないにもかかわらず、日帝が韓国問題を条約文に入れたのは同じ人種を裏切る行為だと安重根は日帝を批難した。
東洋平和論を完成できなかったため 現状・伏線・問答編で 安重根が何を語ろうとしたのかは正確には分からない。しかし安重根の東洋平和論の内容は大体において知られているためにこれを通じてその内容を推測できるだろう。7)
安重根が「現状」で記述しようとしたものは日帝の韓国侵略の実情だったものと推定される。繰り返しになるが安重根が伊藤博文を処断した15箇条の理由がこれに該当するものと思われる。即ち

1,韓国閔皇后を殺害した罪
2,韓国皇帝を廃位させた罪
3,五条約と七条約を強制締結した罪
4,無辜な韓国人たちを虐殺した罪
5,政権を強制剥奪した罪
6,鉄道、鉱山、山林、川沢を強制剥奪した罪
7,第一銀行券紙幣を強制使用した罪
8,軍隊を解散させた罪
9,教育を妨害した罪
10,韓国人たちの外国留学を禁止させた罪
11,教科書を押収して燃やしてしまった罪
12,韓国人が日本人の保護を受けたいと言ったと世界に嘘を広めた罪
13,現在、韓国と日本の間に争いや殺戮が絶えないのに、韓国が太平無事なように上の方で天皇を欺した罪
14,東洋平和を壊した罪
15,天皇陛下の父大皇帝を殺した罪 だと言った。8)
  

「伏線」という辞書的な意味は「後事の準備として暗々裏に用意しておく」という意味であるので、「伏線」では東洋平和を守るための方策について叙述しようとしたのだろう。これは安重根が1910年2月14日平石高等法院長と面談した時の状況を日本外務省が残した「聴取書」という記録で確認できる。その内容を整理してみると次の通りだ。つまり、安重根は東洋の平和を維持する方法論を次のように提示した。即ち@世界各国の信用を得ること。A日本がしなければならない急務は現在の財政を整理すること。B平和会議を定着させる方法の考究。C世界各国の支持を得ること。9) ここで分かるように、安重根の東洋平和論は日本がアジアで覇権を維持するための方策を提示したものである。繰り返すが安重根は日本を立ち直らせることによって東洋の平和を維持できると見ていた。日本が対外政策を是正しない限り東洋の平和と韓国の独立は保障されないだろうと見ていたことだ。
 こうした意味で安重根は当時日帝が行っていた対外政策に対し

 従来外国で用いてきた手法をまねているもので弱い国を平坦にする手法だ。こうした考えでは主導権を握ることができない。いまなお他の強い国がしなければならない。今や日本は一等国として世界列強と並んでいるけれど日本の性質が急で早く亡びるという欠陥がある。日本のことを考えると実に惜しいことだ。10)

と評価していたのだ。つまり安重根の解法は日本が西洋侵略勢力の政策を模倣しては駄目で新たな方法論を採らねばならないと言うことだ。
 それならば安重根が「東洋平和論」で提示した'新しい'方策とは何なのか、これについては次で具体的に探ってみよう。

@世界各国の信用を得ること。
 日本の対外政策は既に信用を失っており、その信用を回復するために伊藤博文が行ったものと同じ侵略政策を直さなければならないと安重根は主張した。さらに安重根は日本が信用を回復できる方法を次のように提示している。つまり、安重根はまず日本が占領した旅順港を返すと同時に、そこを韓・清・日が共同で管理する軍港にしようと提案をした。そうしながらも彼は旅順港に三国の代表で構成された'平和会議'を組織して11) これを発表すれば世界が驚き日本を信頼するようになるだろうと考えていたようだ。12)

A日本が直面した急務は現在の財政を整理すること。
 安重根は平和会議が組織されると東洋三国の国民数億名から会費1円ずつ募金して銀行を設立しようとした。この銀行を通じて共同の貨幣を発行して重要なところに平和会議の支部を置いて銀行の支店を併設すれば財政問題は完全に解決されるだろうという意見を提示した。13) これは日帝が東洋を侵略する原因が経済的窮乏にあるという安重根の診断によるもので経済的問題が解決されれば日帝が決して侵略に出ないだろうという前提を基盤にしたものと思われる。

B世界各国の支持を得ること。
 安重根はこのような東洋平和体制を確固にする方法として世界各国の支持を得ることが必須的だと主張した。このために世界人口の3分の2を占める天主教信者たちの王であるローマ教皇に会い一緒に誓って冠をかぶればこの問題は解決されるだろうと安重根は見ていた。こうした側面で安重根がもっぱら人種論に執着して現実を認識できなかったという指摘に15) 対し再考する必要がある。つまり、安重根は大体において西洋を侵略勢力として東洋を平和勢力として区分して見ていたことは推定されるが、西洋人全体を侵略勢力として認識したとみることはできないだろう。これはローマ教皇に平和会議を追認されるようにしようと主張した安重根の発言からも窺える。こうした脈絡で安重根の西洋認識は彼自身が日本を伊藤を中心にした侵略勢力とこれに反対する天皇と日本国民に区分する分析的視覚を見せていることとも一脈相通ずるものだと言えよう。16)
「問答」は日帝の対韓侵略を正当化する論法、即ちアジア主義で武装した久園検察官のような日本人を登場させて、これに対する対抗理論として安重根の東洋平和論を掲げ相互論争を通じて日本人が安重根の東洋平和に説得される内容で構成されたものと推測される。

3,西坂豊の平和のための闘争

 日本の平和問題を考えるとまず浮かび上がる人物が沙也可である。彼は本貫が金海、字善之、雅号慕夏堂、本名沙也可。彼は1592年(宣祖25)壬辰倭乱の時、加藤清正の左先鋒将として朝鮮に渡ってきた。しかし侵略を憎んで平和を愛していた彼は慶尚道兵馬節度使朴晋に帰順した。数々の戦闘で大きな功績を立て、嘉善大夫という官職を与えられた。また権慄、韓浚謙の周請で金海金氏姓と忠誠という名前を授かり資憲大夫に上がった。
 王が下賜された姓氏だと言って賜姓金海金氏と呼ぶ。丁酉??乱の時戦闘に参加して功を立てた。
 また1636年丙子胡乱が起こると彼は自ら進んで廣州雙嶺の戦いに参戦して清国兵500余名を殺した。清に降服を通告して大邱の鹿里へ帰って行った。その後晋州牧使張春點の娘と結婚、ウロク洞(大邱広域市達成郡カチャン面)に定着して暮らしながら家訓・郷約などを用意して郷里の教化に努めた。
 彼は日本人であったが間違った方向に向かっていくのを見過ごすことができず日本の朝鮮侵略を全身で食い止めた平和主義者だった。
 近代に入って沙也可の代を継ぐ人物が現れたのだがそれがまさに西坂豊である。しかし、まだ彼に対する詳しい研究がないのが実情だ。大韓毎日申報に出ている彼の履歴を調べてみると、1879年愛知県で出生したということと、早稲田大学と正則英語学校を卒業した履歴程度だけが知られているだけだ。
 現在としては彼の思想、彼の社会的系統、当時の日本平和勢力との関係、活動状況などについては詳しく分からない。「大韓毎日申報」の「志士自殺」17) 、「梅窓美酒」18)、「西湖過客の弔詞」19)、「西坂處義」20)、「弔西坂豊氏」21)などの記事によると恐らく東洋の平和を主張して日本の対韓政策が間違っていることを甚だしく憂慮した彼は東洋の平和を実現して韓国の独立を維持しようとしたのだろう。これを実践するために彼は伊藤博文にソウルに通信社の設置許可を要請したが統監府の妨害でその意をなしえなかった。これに侵略行為を非難する書信を伊藤博文に送ったが返事はもらえず、彼は結局伊藤の対韓侵略政策に対する反対意思を明らかに伝えるための手段として1906年12月6日泥俔(今の雲泥洞)不知火旅館で割腹自殺をした。
こうした彼の律義な行動に対し大韓毎日申報は彼に「義士」、「志士」という敬称を付けて敬意を表した。そうしながら彼の行為は朝鮮ではなく日本のための偉大な決断であったことを強調した。一歩進んで大韓毎日申報は親日派に対する警告として西坂豊の偉大性を称賛した。
黄@は次のように西坂について記録している。

日本人西坂豊が自決した。彼は日本の儒士として、平和を主張して我が東洋を駆けずり回りながら世の人々に平和を勧め、韓、清、日の唇歯関係を一層強調した。そして彼はまたソウルに来てからやや長い歳月を過ごしたが、伊藤博文と(長谷川)好道などの専横をみてしばしば彼らを諫めた。しかし彼らが聞き入れないと、彼は死をもって自らの志を明らかにするために高殿から飛び降りたが死ねなかった。彼は多くの群衆の前で演説をした後結局自決した。22) 
 と言って西坂豊を讃えている。
 朴周大も
乙巳殉国の中で異色的な事件は中国人潘宗禮と日本人西坂豊という人が自決した事件 である。潘宗禮(43)は日本留学を終えて戻ってきたが船が仁川港に着いたとき乙巳条約の知らせを聴いて韓・中は唇歯の関係であり韓国が滅びれば中国もまた危うくなると黄海に投身して自殺し、日本人西坂豊は平和主義者として伊藤博文に侵略行為を思いとどまらせる書信送ったが聞き入れられないと自決でもって抗議した。
「丙牛 光武 10年12月條」
日本人西坂豊が再び出てくるが今度は彼が天皇に韓日調匡之策を上奏したが聞き入れ  られないと鬱憤を堪えきれず割腹自決した。23)
 と記録している。
このほか『公立新聞』24)と『大韓自強会月報』25)も西坂豊を義士として称賛している。特に独立運動家たちが独立精神を高揚させる目的で編纂した『吾讐不忘』で

五條約ヲ見テ韓国ノ危害ノミナラズ東洋平和ノ一大不幸ナルニ際シ伊藤博文ニ書ヲ致シタルモ、遂ニ不如ヲ痛恨シ泥洞ニテ墜死シタリ。

このように西坂豊を安重根とともに独立戦争と平和実現の活力として活用していることから彼に対する韓国人たちの認識をうかがい知ることができる重要な根拠になる点で意味深いと言えるだろう。

4,むすび

 ここまで日韓両国の平和主義のモデルとして安重根の東洋平和論と西坂豊について説明してきた。
 筆者がこの小論文を通じて言いたいことは"平和"とは単純な観念的修辞に留まってはならず、平和こそ人類の永遠の生を保障できる唯一の方法だということだ。こうした意味で日韓両国の平和のために自らの命を捧げた安重根と西坂豊のような人物をモデルとして私たちの平和運動も命をかけて運動をしなければ "平和"は好事家たちの言葉遊びにすぎないものになるだろうし、私たちの未来を保証できないということをもう一度この席で主張し、これからの未来のために私たちは力を合わせなければならない。 最後に日本人の中に西坂豊がいることに声を上げて泣かざるを得ないことを吐露するものである。

1)国家報勲処・光復会、「聴取書」57頁。
2)ユンビョンソク、「解題 安重根伝記全集」国家報勲処、1999年12月36頁。
3)《東亜日報》1979年9月19日付、「安重根義士 東洋平和論」。
4)《東亜日報》1979年9月19日付、「安重根義士 東洋平和論」。
5)同じ脈絡で1910年1月9日付《皇城新聞》の「時局 に対して猛省することが可」と1910年1月15日付《皇城新聞》の「人種の関係」でも日本は黄色人種相互保護方針を考究しなければならず、日帝が推進していた侵略的対韓政策の根本的な修正を要求した。
6)《週刊朝鮮》1979年9月30日付「安重根義士の「東洋平和論」」、35頁。
7)安重根の東洋平和論の具体的な内容は園木通訳生が掲載誌未詳の「安重根 原木通訳生の談 東洋平和論」を彼の娘がチェソミョン氏に提供することによって確認された。以後、大体の安重根東洋平和論の内容が盛り込まれた「聴取書」が1996年チェソミョン氏によって「21世紀と東洋平和論」(国家報勲処・光復会、1996年2月)に紹介された。
8)安重根義士崇慕会、「安重根義士自叙伝」、1979年9月、179〜180頁。
9)国家報勲処・光復会、「聴取書」、55頁。
10)国家報勲処・光復会、「聴取書」、54〜55頁。
11)1883年12月20日付「漢城旬報」の「銷兵義」で世界政府と国際平和軍の創設を言及しているが、安重根の平和会議創設論はこうした史的軌跡の上に形成されたものと思われる。(キムヒョンチョル、「開化期韓国人の対外認識と'東洋平和構想'」、25〜26頁、参考)。
12)国家報勲処・光復会、「聴取書」、55頁。
13)国家報勲処・光復会、「聴取書」、55〜56頁。
14)国家報勲処・光復会、「聴取書」、56頁。
15)チェキヨン、「安重根の『東洋平和論』」、101頁。
16)申雲龍、「安重根義挙の思想的背景」、69頁。
17)『大韓毎日申報』、光武十年、12月21日字(402号、雑報面)。
18)『大韓毎日申報』、光武十年、12月22日字(雑報面)。
19)『大韓毎日申報』、光武十年、12月28日字(雑報面)。
20)『大韓毎日申報』、光武十年、12月24日字(雑報面)。
21)『大韓毎日申報』、光武十年、12月28日字(雑報面)。
22)黄@、「梅泉野録」下巻 丙午年條 光武10年。
23)パクソンス註解、『渚上日月』下巻、民俗院、2003、47〜48頁。
24)『公立新聞』、「志士自殺」、1907年2月20日付。
25)大韓自強会、『大韓自強会月報』第7号、「西坂處義」、1907年1月25日。

    






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