日本と韓国・朝鮮関係史プロジェクト

2004年3月31日  報告

文責 外村 大

朝鮮人強制連行とは?

在日朝鮮人人口は、戦前期はほぼ一貫して増加を続けました。韓国併合直後の1910年には1万人以下と少数でしたが、19458月の敗戦時点では約200万人になっていたと言われています。なお、引揚げ終了後、1950年代以降の在日朝鮮人(朝鮮・韓国籍の定住者)人口は約6070万人程度で推移してきました。

 戦前の在日朝鮮人人口の推移を見ると、1939年から1945年にかけて急増していることがわかります。1938年末には約80万人、1939年末では約96万人であったものが、前述のように敗戦時点で約200万人になっていたのです。つまり、1939年以降の6年間で100万人以上増加していたわけです。

 もちろん、この時期新たに「在日朝鮮人」となった人には、生まれた子どもや勉強を目的にやってきた人、先に日本にわたっていた夫や父といっしょに暮らすためにやってきた女性や子ども、個人的に職場を探して日本に渡航してきた人も多く含まれます。

 しかし、この時期の在日朝鮮人人口が大きく増えた根本的な理由は戦争と深く関わっています。19377月以降、日本と中国は全面的な戦争に突入し、さらに194112月には米国英国などに宣戦布告し、太平洋一帯を戦場としました。戦争を続けるには、エネルギー源である石炭を掘り出し、工場を建てて、それを動かして兵器を作り、さらには日本国内にも基地を築かなければなりませんでした。ところが、そのための労働者は不足していました。日本人成年男子の多くは兵力に振り向けられたためです。

 そこで、日本政府は、1939年度から毎年、どこにどのような人々をどれだけ配置するかの計画を立て実行することにしました。労務動員計画(194*年からは国民動員計画)と呼ばれたこの計画には、朝鮮人を何人どこに動員するか、も決められていました。主な配置先は炭鉱や鉱山、土建工事現場、軍需工場などでした。

 そして、19399月以降、この計画が実施されていったわけです。

 ところで、計画にもとづいて朝鮮人を集める際には、しばしば暴力も用いられました。つまり、本人の意思に反して無理やり連れてきたケースもあったわけです。

 本人が望んで(といっても、そこには朝鮮農村にいても生活が成り立たない、といった植民地支配の影響があるわけですが)、動員に応じたケースももちろんあります。しかし、そのような人も、監視され逃亡できないようななかで奴隷のように働かされていました。

 このことから、労務動員計画・国民動員計画による朝鮮人の日本内地の事業所への配置を一般に「朝鮮人強制連行」と言っています。ちなみに、当時、日本政府や企業の側はこれを「半島人労務者移入」などと言っていました。物資をもってくることについて使われる「移入」という語を用いるのは、当時の日本人が朝鮮人を人間扱いしていなかったことが反映されていると言えるでしょう。

強制連行された朝鮮人は何人くらい?

 19399月以降19458月以前まで展開された朝鮮人強制連行(労務動員計画・国民動員計画にもとづく朝鮮人の日本内地の事業所への配置)がどのくらいの規模であったかについては諸説あります。

もちろん、強制連行に関連する政府の資料はいくつか残っています。ただし、それは「××年時点では○○人の朝鮮人が日本内地の事業所にいた」「△△年度の動員計画数は○○人である」といったことを記した統計がいくつか残っています。もっとも、そうしたものもどのように統計をとっているのか(軍関係は除外しているのか、否か、現在いる人数なのか、連れてきた人数なのかなど)などがよくわからないケースもあります。

また、国家の命令によって働いている人(国民徴用令による徴用者)については、もしその人が怪我をしたり、亡くなったりした場合には、その人や遺族に対して補償を行ったり援護をしたりすることが決められていたのですが、実際に怪我をした人や亡くなった方の数は明らかにされていません。

日本国家が主体となって行ったことなのに、日本政府自体が今日でも基本的な統計すら説明できないわけです。まったくおかしなことというべきでしょう。これは、関係資料が廃棄されたり、隠されたりしているためです。

 しかし、前述のような一部残る統計資料などをもとに検討して、現在の研究では、労務動員計画・国民動員計画によって日本に連行された朝鮮人は約7080万人であったと推計されています。

詳しく学びたい方には次の文献が参考になります。

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社、1965年。

金英達『金英達著作集 第2巻』明石書店、2003年。

海野福寿「朝鮮の労務動員」『岩波講座 近代日本と植民地 5』岩波書店、1993年。

横浜への朝鮮人強制連行は?

 では、横浜市への朝鮮人強制連行はどの程度あったのでしょうか? これについても資料からは詳しいことが確認できません。しかし、かなりの強制連行された朝鮮人が横浜にいたことは確実で、その人数が多数となったのは戦争末期であったと見られています。

 朝鮮人強制連行は開始当初、炭鉱への連行を中心としていました。しかし、アジア太平洋地域全体に戦域を広げた後には土建工事や工場にも連行されるようになりました。そして、日本本土への空襲が行われるようになった1944年頃からは、重要な軍の施設および工場を地下のなかに移す工事が大々的に行われたため、そこにも朝鮮人が多数配置されました。さらに1945年頃には「本土決戦」に備えた軍事基地建設にも朝鮮人が動員されたわけです。

 横浜の場合、炭鉱はなく、逆に軍需生産と関係する工場(製鉄、造船その他の金属機械関係)は多くありました。また、海軍関係の施設も周辺に多く、本土決戦では海で敵を迎え撃つことを予想していました。

 そのようなことから、横浜には1942年頃まではそれほど多数の朝鮮人強制連行はなかったものの、戦争末期になるにしたがって工場や、地下工場・地下軍事施設建設のための連行が大規模に行われたと推測されます。

 残念ながら横浜に関する1943年以降の朝鮮人強制連行者数の統計はありませんが、次のようなことはわかっています。まず、協和会(朝鮮人を管理統制した団体、後述)の資料では、19423月末時点で被連行者が101人、6月末時点では145人(鶴見警察署管内に49人、磯子警察署管内28人、不明68人)、194212月末時点では1059人(鶴見警察署管内709人、神奈川警察署管内174人、戸部警察署管内150人、磯子警察署管内26人)となっています。しかし、これは協和会が「指導員」を置くこととした警察署管内のみについての統計なので、被連行者はこれより多かった可能性があります。

 また、まず、横浜市内の朝鮮人人口は1935年に4732人でしたが、1939年に8889人となり、194511月に15872人となっていました。4511月時点ではかなり多数の朝鮮人がすでに帰国していましたから、458月時点では当然、朝鮮人人口はもっと多い数であったと考えられます。そこには強制連行された朝鮮人が相当数含まれると見られます。

 なお、様々な会社の社史や、個人の証言などから、特に戦争末期に多くの朝鮮人被連行者が横浜市内の工場等で働いていたことが確認されています。朝鮮人被連行者がいたことがわかる、あるいはその可能性が高い横浜市内の事業所は別表のようになっています。

詳しく学びたい方は次の文献が参考になります。

神奈川と朝鮮の関係史調査委員会編『神奈川と朝鮮』神奈川県渉外部、1994年。

『神奈川のなかの朝鮮』編集委員会『神奈川のなかの朝鮮』明石書店、1998年。

協和会とは?

 戦前の日本では朝鮮人も同じ「帝国臣民」であるとされていました。そして、朝鮮人が民族独立の考えをもって日本国家や日本人に反抗しないように「内鮮融和」「内鮮一体」が説かれました。そして、地方公共団体ではそのことを宣伝する内鮮融和団体を作ったり、援助したりしていました。

 1930年代半ばになると、戦争を行うための体制作りが進められました。そのなかで、日本政府は朝鮮人を協和会という団体に入れて、戦争を正当化し朝鮮人もそれに協力するように教化し、立派な「皇国臣民」になるように言葉や習慣まで日本人化するように強制し、同時に国家に反抗するような動きがないか等を監視し、統制しました。

 協和会の組織は、朝鮮人が多い地域からはじまり、1939年には全国的に整備されることとなりました。各県協和会の会長は県知事で、社会事業や教育関係の担当の部課長が役員をつとめましたが、その実際の活動は警察が主導していました。地域レベルの分会組織は警察署管内ごとに設けられ、分会長は警察の特高主任であり、内鮮係、つまり朝鮮人担当の警察官(しばしば朝鮮語ができる警官でした)が、様々な講習や訓練を指導したのです。

詳しく学びたい方には次の文献が参考になります。

樋口雄一『協和会 戦時下朝鮮人統制組織の研究』社会評論社、1965年。

樋口雄一編『協和会関係資料集』緑蔭書房、1991年。

横浜での協和会の組織と活動

 関東大震災時の朝鮮人虐殺が多く行われたこともあり、神奈川県では当局が、1926年に「内鮮融和」をうたう神奈川県内鮮協会を作っていました。1935年に、同会は「内地同化を基調とする矯風、教化」、つまり朝鮮の民族文化を否定して日本国家に尽くすように教えることを目的とする事業を積極的に推進することを打ち出します。

 同会は1937年に事業遂行のための組織整備を行っており、横浜では山手、磯子、寿、伊勢佐木、戸部、神奈川、保土ヶ谷、鶴見、大岡、加賀町の各分会が成立しました。その事務所は各警察に置かれています。

そして、1939年には、同会は中央協和会の下部組織である神奈川県協和会に改編され、より徹底した同化政策や戦争協力の強要を行っていきます。協和会が指導していた事項としては「国体観念の涵養」(天皇中心の日本の国の一員であることを意識、自覚すること)、「報国精神の涵養」(国のために尽くすことを心がけること)、「銃後諸活動への積極的参加」(日常的な戦争協力の活動を進んで行うこと)などのほか、「朝鮮式冠婚葬儀其の他諸行事の禁止」(結婚式やお葬式などを日本風に行うこと)、「和洋服着用の徹底」、「朝鮮靴の使用禁止」、「ニンニク常食の禁止」までありました。

また、横浜での協和会の活動は当時の新聞などからも確認できます。資料@、Aは、当時のことですから協和会の活動を意義あるものとし、朝鮮人も積極的に参加しているように報道しています。しかし、様々な形で「参加」を強要された実状があったでしょうし、民族性を否定された朝鮮人にとってはその時点でもあるいはその後も協和会の活動は心の傷となっていたことでしょう。

資料@ 「半島人の隣組」『読売新聞』1941110

横浜鶴見工場街に半島人の朗らかな隣組が誕生した、同区潮田町1504協和会鶴見分会及び共同住宅23戸の人々が4組の隣組を結成、隣組の総隊長には湘風□□記清水□□こと鄭□□(39)君が推薦され毎朝午前6時には薄氷を踏んで潮田神社に参拝、ついで下野谷小学校の清掃奉仕だ

君が代が早く歌えるやうにと赤誠の人々が特別練習、夜間は夜学を開校して内地語の上達を企てるなど□□□に相応しようと嬉しい心意気を見せている。

資料A 砲金の食器供出 協和会神奈川分会員が

神奈川警察署隣に県協和会ハマ□支部神奈川分会では3日より行われた「協和事業強化週間」に際し管轄内の住民に印刷物を刊行配布して協和事業に就ての関心並に認識を深める事に協力すると共に、分会員が檄を飛ばし分会員が食事に使用している砲金の食器の供出を慫慂して莫大な数量を獲得、金属回収に貢献した〔以下略〕。

協和会と朝鮮人強制連行

協和会は朝鮮人強制連行とも密接な関わりを持っていました。そもそも朝鮮人強制連行は1939年の協和会の全国的な整備をまって、つまり朝鮮人の統制管理が確実となってから始まるわけです。

強制連行された朝鮮人たちは職場単位の協和会に加入させられました。そこでは、協和会員章という手帳型の証明が交付されました。もっとも、タコ部屋のようなところでは協和会の指導訓練すらなく、外部の人々と接触することすらなくただただ奴隷的な労働を強いられていたと推測されます。また、協和会員章を貰い、本人が管理するケースも少なかったかもしれません。なぜなら、これは強制連行先からの逃走防止に用いられたからです。

強制連行先から逃亡する朝鮮人が増加すると、日本政府は、この協和会員章を所持しているかどうかをチェックすることにより、逃走者の摘発を実施しました。列車などでは「移動警官」が朝鮮人に対する質問を行い、また、朝鮮人集住地に対するいっせい調査もしばしば実施されました。特に天皇の「行幸」など特別な警備を要する際にはそれが行われ、協和会員章の有無のチェックによる摘発があわせて行われています(資料)。

資料 神奈川県警察部「朝鮮人特別一斉検索実施計画」

1、目的

天皇陛下来たる6月24日県下横須賀行幸に際し御警衛の万全を期する為め不逞鮮人の検挙並びに戎器兇器其他危険物件の発見取締を目的とす

2、検索の日時

昭和18622日午前2時を期し県下一斉に実施す

3、検索の対象

朝鮮人飯場2649ヵ所及び同人夫部屋、密住地帯等

4、検索の方法

所轄警察署長にありては夫々適切なる計画を樹立左に依り実施目的達成に努むること

〔(1)(2)略〕

3)協和会員手帳の有無並に正否に付き細密なる調査を励行し不正渡航者並に労務動員計画に基く内地移入鮮人中の発見検挙に努むること〔以下略〕


表2 横浜市内の朝鮮人就労箇所(強制連行の可能性の高いもの)

事業所名等 所在地 時期・就労者数
日吉台地下壕(海軍第300設営隊) 横浜市港北区日吉 4年10月頃・鉄道工業作業部隊に約700人、三木組に150人
昭和電工アルミニウム 横浜市鶴見区 相当数
海軍工廠の地下壕等関係工事 横浜市磯子区・金沢区 大規模な朝鮮人の飯場が各地に所在
陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所 横浜市緑区 39〜41年頃・松村組
東京機器工業地下工場 横浜市南区 45年3月から工事開始
海軍省水路部・艦政本部関係地下壕 横浜市栄区 44年以降